この報道姿勢を目に、心に焼き付ける

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この一日半と言うもの、恐ろしいスピードで世間一般はオシム監督を「代表監督」の座へと既成事実化していく。そこでは、昨日までの日本代表のワールドカップでの戦いぶりや、ジーコ監督・協会の功罪はほとんど語られる事無く、“名将”オシムの元での日本代表の再建にばかりスポットが当てられていく。


最終的な判断は、敬愛するオシム監督が下す事であって、その判断を尊重してそれを全力で応援する。オシム監督の言葉を、決断を待つ。
いつかはオシム監督と別れなくてはならないのは分かっていた。いつかは、ジェフと言うクラブがその哲学を引き継いでひとり立ちしなくてはならない日が来るのは分かっていた。その時、自分達サポーターよりももっと身近で辛いだろう選手たちを全力で応援しようと思っていた。


自分の中で、その覚悟はある。
ただ、周囲の過程に、あまりに許せない事が多過ぎる。


川淵協会会長の意図的にも思える“失言”に始まり、踊らされて過去の反省を無視して、新しいセンセーショナルな話題に飛びつくマスコミ各社の姿勢。


その報道の波の中では、いま多くのジェフサポが不安と混乱の中にあるだろう事は一切語られず、あまつさえ「弱かったジェフ」「ゴミのような」などと言う不正確な・侮蔑の言葉が飛び交い、誰もそれを意に介そうとしない。
主力選手たちの言葉は、どんなに言葉を選んでも「代表監督就任歓迎」と表現され、社長の言葉はクラブとしての苦渋を含みながらも「容認」と言う部分だけが切り取られて一人歩きさせられてしまう。


選手、チームの為を想って言葉を選んで語られた「語録」は、あまりにもチープに扱われ、交渉の残りは金銭問題と御大ならば絶対にそうは言わない事を、さもそうであるかのように報道する。


ジェフの歴史、オシム監督と選手・サポーターの信頼、この3年半が陳腐に語られていく。
その全てが許せない。


俺はまだ30年も生きていない人間だ。
だから、戦時統制化の日本がどうだったか、なんて分からない。けれど、実感として今のジェフサポが取り巻かれている状況は、それに近いものがあるのではないだろうか。大きなうねりの中に、大切なものが「小」と切り捨てられてしまう。


いま、誰がどのようにオシム監督について語っているか、ジェフをどのように語ったかを目に、心に焼き付けている。宇都宮氏のように、少ないながらも我々に目を向けてくれる人も居る。その事もまた忘れない。
この状況は、どの「J」チームにでも起こりえる話なのだ。


ジェフの歴史は反骨の歴史だ。苦しい時こそ、それを糧にして這い上がって来た。それは、例え古河のOBである川淵協会会長にも理解できない、ジェフとしての歴史だ。こんな苦境で、これまで積み上げたものを壊させはしない。


これからも、オシム監督とジェフは、表面だけしか捉えようとしない報道の中で、正確に本質を伝えられはしないだろう。そうした報道に対して、またそれを扇動している協会に対して、微力でも言うべき事は言っていかなくてはならないと思う。


・W杯の反省はどこへ行ったのかと言う事を
・川淵の4年間と失言の責任を
・ジェフとオシム監督に対する、誤ったイメージを


いま、言わねば、全ては既成事実化されて固定観念となって植えつけられてしまう。
一人一人が、声を上げていかなくてはならない時、それが今であると思う。